top of page

土屋家の歴史

.jpeg

 

土屋家の歴史は、武田家の旧臣から江戸幕府旗本となり、

その後地域社会の礎となるまでの長い時代の旅路ともいえます。

 

武田信玄に仕えた武士の末裔として、

代々『長三郎』名乗り徳川家に仕え新しい幕府を支えた旗本。

やがて地域に根を張り、松戸市大谷口で神社造営といった建築を通して

土屋家の存在は地に深く刻まれていきます。

そして2024年松戸市博物館にて

大熊伊兵衛と土屋馬之丞を取り上げた企画展『大谷口の村』開催

このページでは、代々の当主たちが時代とどのように向き合い、

「家をつなぐ」という使命を果たしてきたのか。

その足跡を順に辿りながら、皆さんにご紹介していきます。

歴史

知行所.jpg
江戸時代 地図2.jpg
江戸時代 地図.jpg
01-04-01.jpg
15010-487-2f76c67b529807a07d8cc470b88ef728-2000x1688.jpg
15010-487-6c7a983d90eedc54fe757c96a0d7132e-1428x2000.webp

大谷口の村展

土屋匠作.jpg

土屋匠作(明治時代)

尾身幸次財務大臣と本清秀雄 自民党千葉県幹事長と

初代 

(戦国時代)

土屋 定政

讃岐守

金丸平三郎昌直の長男として誕生。

甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆で武田二十四将の一人に数えられる「片手千人斬り」の伝説と異名で知られる土屋昌恒の実兄である。

​武田信玄に仕え、讃岐守となる。

2代目

(安土桃山時代から江戸時代初期)

​土屋 政成

(右衛門)

永禄5年(1562年)に土屋定政の長男として誕生

幼少より武田勝頼に仕えるが武田家滅亡後、

天正20年(1592年)武蔵国八王子に閑居する。

その後に病により歩行が不自由となる。

寛永12年(1635年)6月23日、74歳にて死去。

3代目

(安土桃山時代から江戸時代初期)

​土屋 政重

(長三郎)

慶長3年(1598年)に土屋政成の子として誕生。

慶長16年(1611年)11月18日に14歳で3代将軍徳川家光の小姓となる。

その功により下総国葛飾郡常陸国鹿島郡両郡内において500石を賜る。鹿島郡下は武井村(200石)、葛飾郡は現松戸市内の千駄堀村と栗ヶ沢村であった。のちに御書院番士に昇進し、

寛永10年(1633年)2月7日に相模国愛甲郡のうち200石(猿ヶ島村(現・神奈川県厚木市内))を加増され、石高700石となる。

寛永20年(1643年)、徳川家綱の御守衆組となる。

慶安3年(1650年)9月4日に書院番士に戻る。のちに番を辞して小普請となる。

寛文7年(1667年)、70歳にて死去、西久保大養寺に埋葬され代々葬地とする。

4代目

(江戸時代初期)

​土屋 政一

(長三郎)

土屋政重の長男として誕生

寛文7年(1667年)に家督を相続する。

元禄4年(1691年死去。

5代目

(江戸時代中期)

​土屋 正克

(長十郎、彌佐衛門、長三郎)

土屋政重の三男。

元禄4年(1691年)12月2日、長男・政一の跡を継ぐ。

元禄10年(1698年)3月18日、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉小姓組の番士として列する。

元禄11年(1699年)4月、下総国葛飾郡栗ヶ沢村の知行所に代わり、下総国葛飾郡大谷口村236石と下総国千葉郡中野村86石に移される。9月18日、火事場目付となる。

宝永4年(1707年)1月11日、小十人頭となる。

正徳4年(1714年)5月15日、書院番の組頭となる。

享保6年(1721年)2月7日、職を辞して寄合となる。

享保12年(1727年)7月16日、66歳にて死去。

幕府において小姓組番士から火事場目付、小十人頭、書院番組頭へと進み、最後は寄合まで昇進。この道筋から、忠実かつ有能な実務者であった。

6代目

(江戸時代中期)

​土屋 正方

(熊次郎、民部、長三郎)

従五位下・越前守

生誕宝永6年(1709年)に土屋正克の次男として誕生。

享保12年(1727年)10月9日、父の遺跡を継ぐ。

享保16年(1731年)3月5日、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗小姓組の番士として列する。

元文4年(1739年)7月19日、徒頭となる。

寛保元年(1741年)6月1日に目付となる。大猷院百回の法要や日光山御宮修造などに関係する。

宝暦2年(1752年)2月9日に京都町奉行(東町奉行)に昇任し、4月15日に従五位下越前守に叙任する。

宝暦3年12月24日(1754年)、江戸町奉行(南町奉行)となる。

明和3年(1766年)1月11日、武蔵国横見郡山野下村123石と地頭方村107石を加増され、千石取りの旗本となった。

明和5年(1768年)60歳で死去。

江戸幕府の旗本の数について、「旗本八万騎」と言われるが実際は約5000家余りで、そのうち土屋家のような千石取り以上の旗本は700家ほどであった。

7代目

(江戸時代中期)

​土屋 正延

(左膳、左内、長三郎)

従五位下・伊予守

宝歴12年(1762年)4月15日、江戸幕府9代将軍・徳川家重小姓組として列する。

明和元年(1764年)閏12月9日に中奥番士

明和4年(1767年)閏9月28日に小十人頭となる。、

明和5年(1768年)8月8日に父の遺跡を継ぐ。

明和6年(1769年)2月12日には目付に転じる。

安永4年(1775年)7月1日には駿府町奉行となる。

安永7年(1778年)閏7月20日には京都町奉行に就任

同年9月15日に従五位下伊予守に叙任した。

武士としての格式がさらに高まる。

天明4年(1784年)7月26日には長崎奉行に転じる。

天明5年(1785年)7月12日、長崎奉行在任中に50歳で死去。

妻は赤井五郎作忠通の養女であり、江戸幕府老中田沼意次の信任を得ていた。

8代目

(江戸時代中期)

​土屋 正備

(馬之丞、長三郎)

従五位下・伊予守筑後守

天明5年(1785年)10月6日、28歳で伊予守を継ぐ

天明8年12月24日(1789年)に中奥番士となる。

寛政3年(1791年)9月19日、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の武術台覧において騎射を勤め、放鷹で鳥を射って時服三領を賑う。

寛政11年(1799年)1月11日に使番となり、

同12月18日に布衣の着用を許される。

享和元年(1801年)11月28日に目付となる。

文化3年(1806年)3月4日に佐渡奉行となる。

文化6年(1809年)8月12日に禁裏付となり、この間に従五位下・筑後守に叙される。

文政元年(1818年)4月24日に日光奉行となる。

文政7年(1824年)8月28日に鑓奉行に就任。

文政10年(1827年)11月26日、70歳にて死去。

武術家肌の人物であった。屋敷は下谷藤堂殿脇。

9代目

(江戸時代後期)

​土屋 正典

(榮之助)

土屋正備の長男。

文政10年(1827年)11月26日、正備の死後、46歳で相続するが有能ではなく、役職にも恵まれなかった。

役給の停止に加え正方正延、正備と続いた家計の膨張を収拾する能力にも欠け、用人任せの家政は破綻を暴露した。累積した貸付金、市中借など借財と利息の返済に苦しみ、また知行所への先納金賦課、家計の月割賄など、多くの旗本がたどったと同様の苦難の道を歩むようになる。

10代目

(江戸時代後期)

​土屋 太刀三郎

(弥左衛門、長三郎)

土屋正典の長男。天保三年(1832年)に家督を相続する。

天保五年(1834年)春に累積した貸付金、市中借など借財と利息の返済などを自身の才覚で帳消しにするという須藤久三郎を家臣にする。しかし、村人たちからそれまで以上に金を搾り取って土屋家の収入を増やすことで、財政赤字を強に解消しようとした為、天保8年(1837年)に、須藤の罷免る。

嘉永六年(1853年黒船来航に伴い幕府より武力強化を命じられ、さらに財政を圧迫する。

元治元年(1864年)に死去。

居屋敷は本所南割下水で500坪あった。

11代目

(江戸時代後期から幕末)

​土屋 馬之丞

​(長三郎)

文化10年(1813年土屋太刀三郎の長男として生まれる。

天保6年(1835年書院番士となる。

嘉永7年(1854年)黒船の再来航に備えて、将軍別荘である浜御殿に配備される。浜御殿は江戸城から比較的近く、外国船来航時には“最前線”に近い役割を担っており、儀礼的警備ではなく、実戦も想定した布陣であった。また将軍の避暑や接待にも使われたため、選ばれる旗本は信頼度の高い家柄が多かった。

文久元年(1861年)大谷口村の名主伊兵衛、地頭村名主の仙佐衛門が武士の身分として登用し正式に家臣となる。

元治元年(1864年)に太刀三郎の死去に伴い家督を相続する。

慶応元年(1865年)5月16日に第2次長州征伐のため徳川家茂に従い大阪へ大熊伊兵衛、脇谷仙佐衛門、菊五郎らと出陣する。

慶応2年(1866年)9月幕府軍の撤兵に伴い京都に移る。

慶応3年(1867年)2月12日京都を発って東海道を江戸へ向かう。

慶応4年(1868年)に大願主として、五右衛門(現八木原家)、大熊伊兵衛ら6名が世話人となり、平戸弁天(いぼ弁天)を再建するなど、幕末の社会復興にも関わった。

明治維新後の秩禄処分により知行所を失い、政府から家禄奉還金を貰って旧領の大谷口村(現千葉県松戸市)に土着した。

明治22年(1889年)11月12日76歳にて死去。

令和6年(2024年)馬之丞を取り上げた企画展『大谷口の村』開催

12代目

(幕末から昭和)

​土屋 匠作

安政7年(1860年)土屋馬之丞の長男として生まれる。

明治15年(1882年)宮大工として神社仏閣の造営を業とする。

明治25年(1892年)新明神社(松戸市大谷口260-2)再建。

武士としての家禄収入が途絶え、次世代は武士ではなく生業を立てて生きる必要が出てきた為、平戸弁天再建などで地域の建築復興や神社仏閣に関わった経験が子である土屋匠作に影響し宮大工として活動したと考えられる。これが現代の有限会社山喜の礎となった。

昭和7年(1932年)6月19日73歳にて死去。

13代

(明治時代)

​土屋 喜作

明治36年(1903年)土屋匠作の長男。

昭和4年(1929年)稲荷神社(松戸市旭町2丁目)造営。

昭和34年(1959年)3月に平戸弁天の本堂改築。

昭和38年(1963年)61歳で死去。

14代目

(昭和から平成)

​土屋 喜和雄

昭和10年(1935年)土屋喜作の長男として生まれる。

昭和27年(1952年)山喜の前身となる有限会社三協鉄工 設立

昭和53年(1978年)有限会社山喜商事 を松戸市新松戸1丁目197番地に設立

昭和60年(1985年)商号を有限会社山喜へ変更

平成27年(2015年)80歳で死去。

15代目

(昭和から令和)

​土屋 和久

昭和36年(1961年)土屋喜和雄の長男として生まれる。

平成7年(1995年有限会社山喜の代表取締役

16代目

(平成から令和)

​土屋 慶汰

平成3年(1991年)土屋和久の長男として生まれる。

平成27年(2015年)有限会社山喜の取締役

togaku.png
bottom of page